南 瑠衣@小笠原環境メッセンジャー[ルイいる?blog]
このblogは小笠原環境メッセンジャー@南 瑠衣が自分なりの視点で環境問題を伝える日記です。 清掃活動や環境イベントなどの様子を、随時報告します。
--年 --月 --日 (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ranking baner にほんブログ村 環境ブログへ CoRichブログランキング ブログ王 イザ!ブックマーク
2009年 11月 27日 (金)
テーマ : つぶやき - ジャンル : 福祉・ボランティア
ある家族の話

私の母は幼稚園から高校まで私立のお嬢様学校で育てられた。本人曰く、かごの中の鳥だったそうだ。叔母も同じく私立の有名お嬢様学校で姉妹ともエリートの道を選ばされていた。祖父は横浜国立大学の教授で当時では珍しい航空力学を専門としていた。海洋発電など工学・科学の専門家として教鞭をとっていた。
祖父は新潟の田舎町、良寛で有名な出雲崎の農家の七男坊として生まれた。田舎農家の七男坊なんて、将来たかがしれている。そう思い必死で勉強し、当時では珍しく東北大学に入学した。戦争の飛行機を設計する為にであったが、同時に戦争は終わり先頭飛行機の需要はなくなった。祖父方の親戚はすべて、医者の家系である。今でも、歯科医・外科医・内科医・眼科医と親戚はうち意外の親戚は皆、医療に携わる人間である。
祖母は、鵠沼の大地主の娘だった。鵠沼の坂の上の後藤といえば、街の人間は知らぬ者はいなかったという。一代にして材木屋を営み、手広く商売をし長者番付に載ったこともあったそうだ。祖母の父、後藤は人徳があった。菊川団十郎を自宅に招き、うなぎを食べさせて帰らせたそうだ。祖母と祖父はお見合い結婚だった。祖母の父・後藤は早く祖母を嫁にやりたかった。そこで、医者の家系の七男坊である祖父に縁があってか、声がかかった。
祖母の父が開拓した土地に祖父が新潟から引っ越してくる形で祖父は形見が狭かった。

娘は「晴美」と名づけた。『晴れる日に美しい』という響きが私は好きだ。
叔母は「恵美」『恵まれた美しさ』という姉妹共に、『美しい』という文字を選んだ。
祖父と祖母は娘たちに当時、エリート教育といわれるものすべてを教えた。
もともと研究者であった祖父だが、娘たちには「音楽」を習わせた。女性は当時、ピアノが弾けなければならないという教育だった。自宅にグランドピアノを買い、今でも時々、音色を奏でる瞬間がある。ピアノのほかにも、バイオリン、トランペット、ギター、フルート、音楽の分野とよばれるものはすべて母と叔母に教え込んだ。
そして、理解があったかどうかわからないが、芸術の分野に関しても有名な先生に書き方を幼少の頃から習わせる徹底振りだったそうだ。叔母も母も今でもアートに理解があり、絵も描く。文学という文学は祖父から譲り受け読まされたそうだ。

母も叔母も天才のせいか、左利きである。
母は特に反発した。厳しい幼稚園から高校までの女子高生活から抜け出したかった。そのために目指したのが画家だった。叔母も母もいくつもの賞をもらい成績は常に学年優秀だった。その中でも、反発するように母は、アートにのめり込んだ。ヨーロッパ全土を旅行し、何度もルーブルや世界の名だたる美術館を巡った。異常なほど、母は芸術に関して、純粋であり、追及し厳しかった。当時、倍率40倍とも言われた東京藝術大学油絵科に女性で唯一、合格し、その後賞をかっさらった。それからは毎日が楽しい大学生活だったそうだ。世界を巡り、日本を巡り、貧乏旅行をしながら絵を描く生活だった。
上野の芸大に毎日通っていた。坂本龍一君は芸大の音楽科だったけど、当時、音大は女が多くてピアノをやる男子なんて珍しいなと思ったという。平山郁夫氏の授業もうけたことがあり、大体の日本の画家に師事したという。当時、油絵科で女性は珍しく重宝されたそうだ。朝まで美術室で飲み明かしたことや絵を描いて集中していて気がつくと、次の日になっていたなんていうこともあったそうだ。そんな母は、箱根彫刻の森美術館で学芸員として働いていた時期があった。新聞にも当時掲載されたそうだし記事をおぼろげながら見た記憶もある。叔母は、中国語を学び外資系の大手企業に就職した。
母はその後、ハッシュドパピーという靴のデザイナーにならないかという誘いがあり迷ったそうだ。その頃、ちょうど小笠原諸島の父島へ旅行し父と出会うことになる。

母も叔母も祖母も、口をそろえて言う。うちの女は男性運がない、と。
祖父は結婚から人生が狂い始めたと、今でも嘆く。しかし、祖父が早く女は結婚するものだと結婚を焦らせたのも良くなかった。うちの母は、小笠原諸島に旅行し、ジョージという欧米系の島民と出会うことになる。ジョージは、ロバートの息子・長男でやんちゃでお茶目な性格だった。出会った当時、母のほうが年上であった。その後、父が何を思ったか貯金をほとんど持たず、荷物を抱えて母の自宅に転がり込んだ。

母は画家になる夢が、捨てきれなかった。夢を追えば安定は遠ざかり、安定を追えば夢は遠ざかる。その頃には、おなかに小さな赤ちゃんを授かっていた。それが私である。母は夢をあきらめ、美術の教員になるため、公務員試験を一念発起して受けた。当時、父の手取りは15万ほど。25歳の高卒、島出身の若造には月15万で養うのが限界だった。それではやっていけないと、母も自宅でお絵かき教室をやったりしていたが、やはり生活は厳しかった。そこで、母も教員となって働くことを覚悟した。

手取りは肉体労働者の父より、多くその頃から父の立場もなくなった。
父は子供にお手製のブランコをつくってくれた。庭に今でもある鉄パイプのブランコだ。アメリカの普通の家庭に憧れたのだろう。小笠原のゴロヘイさんの家には同じようにお手製のブランコがある。父なりの、家族サーヴィスだった。
その後、収入も安定し、母は独立できるほど安定した収入を得られるようになった。しかしその代償は大きかった。母は養護学校という病気や怪我、障害などの特別な学校の美術担当として、命と向き合う日々が続いた。昨日、授業をうけていた生徒の容態が急変して、次の日に亡くなることは度々あった。家には黒い喪服が準備され「今日は遅くなるからね」という言葉が子供心に「お葬式にいくのだな」と思った。
父はその頃から、家にあまり顔を出さなくなった。父は島に帰りたい、ガイドをしたいといっていたが母は子供のために反対した。対立の原因だった。母は、子供たちには普通の生活をしてほしいと望んだ。父は自分を押し殺して自動車整備工場に勤め、いつか島にかえりたいと願っていた。そこから少しづつ家族に亀裂が生まれた。
私が六年生の頃には、父は島に帰る覚悟を決めていた。母も美術教諭をして、子供三人を一人で育ててゆくという覚悟を決めていた。それは子供ながらわかっていた。

母は私に、研究職か専門家が向いているといった。
教授であり研究者であった祖父の影響もあって、のめりこむととことん研究して興味を持つことが長所だといってくれた。美術の道に進みたいとも、言った。母は、それなら全力で応援するといってくれた。母の同級生の運営する美術予備校を紹介してくれたが、その体験入学が馬鹿らしかった。入学希望はどこですか?と言う質問に対して芸術大学です。というと受付の人間は少しためらったように答えた。合格率は5パーセントくらいですよ、とだけ言った。体験デッサンは、勉強になった。ただ馬の石膏のデッサンをするという内容だった。馬鹿らしい、なんで馬を書かなくちゃいけないのか?書かされなきゃいけないのかとそこで反発した。我流で書く馬は酷かった。ただ美術はずっと5段階で5だったので書いた。後日、はやり才能があると思います力強い絵だなどといわれたが現実も考えた。

絵で食っていけるのか。
そう考えて、芸大は保留にした。そうこう悩むうちに高校の大学進学の進路調査になった。
評定平均4.0以上で校長の推薦があれば、指定校推薦ができるという。
教師にお前は学年トップだし優秀だからこのまま大学を受験してもいいと思うし、指定校推薦を受けて募集枠1名に選ばれればよいと言われた。結果、私は、受験から逃げた。指定校推薦を校長から受け、募集枠1名に申請した。そこで、半分は絵を描くことはあきらめた。学術的に大学で学び、自分をみつけること、自分の幅を広げることも大事だと自分を納得させた。

続く
スポンサーサイト
ranking baner にほんブログ村 環境ブログへ CoRichブログランキング ブログ王 イザ!ブックマーク
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright © 2005 南 瑠衣@小笠原環境メッセンジャー[ルイいる?blog] all rights reserved.
- Powered by FC2ブログ ・ Designed by うずら -
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。