南 瑠衣@小笠原環境メッセンジャー[ルイいる?blog]
このblogは小笠原環境メッセンジャー@南 瑠衣が自分なりの視点で環境問題を伝える日記です。 清掃活動や環境イベントなどの様子を、随時報告します。
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2008年 07月 03日 (木)
テーマ : 環境 - ジャンル : 福祉・ボランティア
「私の中の小笠原」~小笠原諸島返還40周年に寄せて~

 今年2008年6月26日で小笠原諸島が日本領土となって返還40周年という節目を迎える。僕にとってはいささか不思議な響きだ。『領土返還?』アメリカ領土から日本の領土として返還された日米友好の象徴ともいえるが戦争や島の歴史を紐解くと、それは綺麗ごとだ、と思う。僕ら、家族には日本になって40年になる。祖父は今でも複雑な思いだろう。アメリカ人の自分がなぜ、名前を日本名にして、国籍も言葉も日本語を強要されなくてはいけなかったのだろうか。
僕にはイギリス、ハワイ、日本の3つの血筋が流れているそうだ。
そもそも、小笠原諸島はイギリスの領土であった。その血筋とセーボレーの血筋、そして創作的な母の日本の血筋が僕に流れている。
だからかはわからないが、あまり外国人や人種に抵抗も感じない。むしろ幼い頃、よく父に横須賀基地のベースに毎晩のように連れて行かされ、普通の日本人じゃ到底味わったことのないであろう幼少期であった。横須賀基地には、親戚もしくは知人がいないと入れないことになっている。
当時、父はよく横須賀基地に出入りしていた。日本人より、陽気などことなく小笠原気質溢れた人間が付き合いやすかったようだ。横須賀基地でザリガニを一日中、アメリカの白人の子や黒人の子と何十匹と釣った日もあれば、バーベキューしたり、ダンスナイトに連れて行かされ回りの大人は英語で何言ってるのかさえ、わからないのに、父が流暢に英語を話すのが不思議で仕方なかった。何故、父が英語を母国語として話せて僕が話せないのだろうか。
それは、小笠原諸島の歴史に在る。僕の世代でちょうど欧米系といわれる小笠原で住み始めた住民は6代目を迎える。若い島の女の子で子供を生んだ子は7代目にあたるわけだ。
古き良き小笠原の島を知るのは5代目までだろう。これは断言していいと思う。
事実、僕の世代からか急激に島も都会と化していった。それに、島の盛り上がり方や住民模様も少し当時と今とでは違うように感じる。
5代目の父たちはグァムの学校へ行き、島を駆けずり回り暮らしてきた世代だ。
6代目の僕はといえば、最初の小笠原での記憶は当時「NHKの放送」しかTVが入らず「じゃじゃ丸、ピッコロ、ポロリ」という番組しか見れない子供にはつまらない島だ、と感じた記憶だ。その頃はまだ、道路も整備されていなかったように思える。
特に小港や宮の浜なんて、あんなに開拓されておらず、記憶の中の小笠原と毎年整備が進んでゆく島のギャップに戸惑いを感じた。宮の浜では祖父のロバートが欧米系住民では伝統的なアウトリガー・カヌーに乗せてもらってはタコを捕ったりウニを捕ったりした。一人乗りの小さな木彫りの船なのだが、そんな小さな船で祖父は母島までよく行った、と色々な話をしてくれた。以前は捕鯨も盛んで捕鯨で潤っていた。

グァムで捕れた魚や鯨を売っては、2ヶ月以上帰ってこない日もあったという。
小説で挙げるとすればヘミングウェイ作「老人と海」では、その姿が祖父とかぶり今でもその祖父の手のひらは厚ぼったい船乗りの手だ。

まだ記憶に新しいのは、返還35周年祭だ。その時は僕も母も島に行き、親戚がたくさん席に座りあれだ、これだと親戚を紹介された。大きくなったといわれても覚えている記憶はほんの少しでしかない。
現在では鯨には100m以内には近づいてはいけない、というルールが出来たし南島も入島2時間というルールも出来た。僕の一番古い記憶では、ザトウクジラが10mくらい横で飛び跳ね、イルカの調教師になった気分だったのを覚えている。僕が、合図をすると鯨がところどころで飛び跳ねる、そんな感覚を覚えている。

僕にとっては、そんなにありがたい島でも何でもない。ただ故郷にあることには変わりない。素晴らしい自然に綺麗な海に囲まれた島である。
毎回、島から帰るとき欧米系の人や親戚はなぜか見送りが端っこの方で大体位置が決まっている。あるときに島から内地に帰るとき、ふと父の友人に『お前も島では欧米系なんだからな。しっかりした血筋をひいているのだから、しっかり生きろ。また(島へ)こいよ!』と言われたときは何故だか、欧米系独特の仲間意識を感じることが出来た。

正直、父たちの代である5代目は複雑な世代だっただろうと思う。
相当、父や父の友人自身もジレンマを抱えていたと思うし、その世代にしか感じられないなんとも言えない時間の流れの経過や移り行く島の返還を目の当たりにしてきている。
その世代の出した答えは“共存”だったのだろう。もしくは“共生”か。
観光産業でしか、今後成り立たない島の未来をどう見ただろうか。
伝統的なものは消え、新しいものが創られてゆく世代なのだ。
僕からみれば、小笠原諸島まで行く観光客の人は『なんてもの好きなんだろう』と良く思う。もしくは『何故、そんなに小笠原なのですか?』と問いただしたくなる位だ。
しかし、自分の故郷をそれだけ愛されている小笠原好きの方々は本当にありがたい。
小笠原に行くには『時間』と『金』が必要なのだから。そこまでしても行って下さる島なのだから。船の運賃が片道2万ちょっと。往復5万くらいで滞在費を入れると10万はかかるであろう。この時代に3泊5日で10万なんて!ありえない。
僕が10万渡されたら、その金で飛行機でハワイか韓国、グァムかアメリカへ行くだろう。
だから、25時間もかけて船で小笠原へ旅行する方が不思議で仕方ない。だけど、『そうまでしてだからこそ』行く価値のある島だ、と言ってもらえるならばこれ以上に嬉しい言葉はないと僕は思う。

小笠原諸島が返還40周年という節目の年であるが、2009年には世界遺産登録も視野に入れ検討をしている。冷ややかかもしれないが、僕は40周年というのは歴史の通過点でしか過ぎないと思う。僕からしてみれば親戚や父や祖父の故郷が日本に奪われて40年の年となる。なので、一概に喜べはしない。何故、40周年なのか。
日本での領土となって40年という時間が過ぎたということ。アメリカ領土であったこと。逆説的にいえば、日本がアメリカから小笠原諸島を日本領土だとすべきとして主張し40年の歴史が在る。

沖縄にもいえるが、ただ40周年といえどどんな内容の詰まった『記念なのか』を一度考えてお祭り騒ぎをすべきだろう。それを忘れ、40周年です!というやり方は僕は好きではない。

最後になったが、いつも島に帰ると良くしてくれる欧米系問わず、小笠原の島人の方々には感謝しています。つい先日も、『パッション祭り』だったそうで父から真っ赤なパッションフルーツが箱一杯に送られて来た。こちらのスーパーでは1つ500円という値段だから信じられない。島へ帰ると、よく帰り際に親戚からあれやこれやと島のお土産をもらう。島へ帰る時、次回こそは島に何か「島のためになるもの」を持ち帰ろう・・・と胸に思う。
島の学生なんて、生意気なもので威勢がいい奴らばっかりだ。
だけど、悪い人間はいないと思う。むしろ、素敵な若者ばかりだ。

僕が生きている間に返還100周年を迎えられるだろうか。
今、25歳なので85歳か。
その頃には7代目、8代目小笠原世代となっているだろう。
僕は、記憶の中の小笠原を愛してやまない。
“愛覧島”と書いて“アイランド”。
そして最後ではあるが、シルバーセイラーことエーブルに捧げる。
僕も少しは小笠原人としての誇りでありたいものだ。
【南瑠衣】
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コメント
この記事へのコメント
私は、米軍が大嫌いです。今の日本は平和を維持してる。米軍は世界中で、何やってるんだよ。戦後、故郷の小笠原に帰れず貧しい暮らしした日本人もいる。欧米系がいれば日本人も暮らしていた。
2008/07/15(火) 08:12:02 | URL | sara #-[ 編集]
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